思考をパッケージに詰めてラベルを貼っている。
もともとツイッターは依存気味で、暇さえあればチェックしてしまっていた。
この癖はやっかいで、もっとほかにやることもやりたいこともあるのに、気づくとツイッターをチェックしてしまう。そして他愛のない内容をツイートしていく。
ふとある日、この小さなアウトプットのせいで、わたしは沢山の思考を放棄しているのではないか?と思うようになった。
ほんとはもっと考えていて、やらなくちゃいけないタスクも何とかしたい問題も抱えているけれど、「ねむい」「会社行くのめんどい」とツイッターでつぶやくことで考えを止めてしまっている気がする。
タスクに例えよう。
例えば「飲み会の幹事をする」役目があるとする。
このタスクは一言だが、実際にやるにはたくさんのタスクが連なっている。
- 参加者を集める
- 日程を決める
- 参加者に好みを聞く
- 店を探す
- 店を予約する
- 予約した店の詳細を参加者に通知する
- 当日までの連絡
- 当日の幹事
- 会計
などなど。
我々はこれらをこなすことを「幹事をする」で理解することが出来る。
そして「幹事をする」ことに対してめんどくさいだとか、楽しいだとか、色んな感情を抱いて、先送りしたり、積極的に引き受けたりする。
考える行為についても同じことをしているのではないか?
本当は、業務改善のため開発と企画と運用、それからお偉いさんを呼んで資料を作りレビューして事前周知して会議室の予約をすることを、「MTGを設定する」にしてないだろうか。
事細かにツイートすればいいということではなく、何でも自由に呟いていいのだけれど、文字を打ち込んで発信するわずかな情報で、もっとたくさん考えていたはずのことを紛らわせてしまっていやしないか?と感じたのである。
考えたことを外部に公開するかしないかは、本人の判断によるだろうが、日記や手帳やブログを書いてちょっとスッキリする経験は、多くの人がしたことあると思う。考えを書き出すことは整理がついてスッキリするものなのだ。
なのに、考えかけていたことを、大ざっぱなタイトルを書いたラベルを貼って覆い隠してしまうようなことを、わたしは随分たくさんしてきたように思う。そうして、もやもやとした気持ちを覆い隠して過ごしてきたし、今も過ごしている。
わたしはブログを書き始めて、そうして隠してきた、うすうす感じてはいたけれど、実行に移してこなかったようなことを考え直したり、実行に移したりするようになった。
「痩せよう」だとか「成長しよう」とか、大きな文字で書いた大きなラベルを剥がして、パッケージされた考えや感じたことを取り出し、つまりそれはどういうことか?を文章に書き直しているようだ。
自分のために書いているこのブログは、続けていれば、「そのうちやる」とか「時間ができたらやる」と書かれたひときわ大きなラベルが貼られて放置されている考えやアイデアを解き放ってくれるのではないか?そんな風にも考えるようになった。
こうして考えて書くことを続けて、できれば見やすい文章やレイアウトなどの工夫もして、少しずつでも長くブログを続けていけたらいいなと思う。